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学問からの「ヴィーガン」のなぜなに?第四回


②なぜヴィーガンなの?


4.ヴィーガンと動物愛護と植物と


I.ヴィーガンと倫理学


 いよいよ、ヴィーガンの核心に迫ってゆきましょう。


 これまでの回で述べてきたことを振り返ると、次の三つのことがわかります。


科学的、客観的にいって

 1 ほとんどの人は動物性食品を消費しなくても健康に生きることができる

 2 動物性食品の消費は環境に大きな害を与える(2の最後に述べた一部の場合を除く)

 3 動物は苦痛を感じる存在で、現在の畜産業や漁業は動物に大きな苦しみをもたらす


 1から分かるのは、動物性食品の必要性が小さいということ。2と3より分かるのが、動物性食品の生産が環境と動物に大きな危害をもたらすことです。


 ここにもう一つの前提として、「消費は生産につながる」という経済の基本原理を考えてみます。

 製品を買ってお金を払う、すると需要が形作られます。この需要は生産者に伝わり、生産と供給を続けることを促します。この需要が大きくなると生産される製品は多くなり、小さくなれば生産も縮小します。※1

 畜産業や漁業に従事する方々は、喜んで環境や動物を害しているわけではありません。需要が減り経済的な動機がなくなれば、自然と動物性製品は減ってゆくはずです。※2


 そして最後に、

「可能な限り環境への害をなくし、不必要に他者を苦しめない」

という、私たちの多くが共有する道徳観でこれらを包んでやりましょう。


 以上から導かれる論理はとてもシンプルです。

「必要性が小さく、動物や環境に大きな危害をもたらすシステムに、可能な限り直接の加担または金銭的な支援(消費するなど)をしない」


 これを動物に焦点を絞って言い換えれば、第一回で確認したヴィーガンの定義、

「実行可能な限り、食物や衣服の生産などに伴う、あらゆる種類の動物への搾取と虐待を避けようと心掛ける生き方」を選ぶ者

となるのです。※3


 第一回で、ベジタリアンは理論的根拠をもったものだと述べました。ベジタリアンの実践は、客観的で合理的な学問、すなわち倫理学に支えられていたのです。


 倫理学者の児玉先生はこう述べます。

「倫理学は規範的な学問であり、その目的は、死刑を廃止すべきか、ベジタリアンになるべきかといった問いに関して、合理的な解答を与えることである。…倫理学は実践についての学問であるため、倫理的問題を哲学的に考えた結果、正しいと思われる結論に至ったなら、自分の行動を変えることが要求される。」[1]


 ヴィーガンにも同じことが言えます。

「可能な限り環境への害をなくし、不必要に他者を苦しめない」

この根本的とも呼べる規範をその身をもって実践すること、それが倫理学としてのヴィーガニズムです。

 ここでいう「他者」の中には、苦痛を感じうるあらゆる種の動物、そして実は私たち人間も含まれています。これについては、次回にみてゆこうと思います。


 もちろん、全ての人がヴィーガンになれるわけではありません。

 地理的・経済的条件から動物を食べることが生きるために必要な人、大豆・小麦アレルギーなど体質的に植物性中心の食生活を選べない人、住んでいる地域でヴィーガン生活を送れるだけの選択肢がない人、、、このような方たちにとって、ヴィーガンは「実行可能」ではありません。また、友人や家族との関係が悪くなってしまうのを恐れて、ヴィーガンになれない人もいると思います。

 いまは一人ひとりにとってより良い選択へ向かってゆくことが、最も大切なのではないでしょうか。


II.動物愛護?

 ここで「動物愛護」という言葉について考えてみましょう。

 この言葉は「動物を愛おしみ、命や安寧を守る」という意味で、情緒的であり個人の好みが絡むもの、という響きがあります[2]


 一方、倫理学者のシンガーは『動物の解放』の冒頭でこう述べています。

「私たちは動物たちを「愛して」いたのではない。私たちはただ彼らがあるがままの独立した感覚をもつ存在として扱われることを望んでいたのだ。…動物虐待に抗議する人々を、センチメンタルで感情に動かされやすい「動物愛好者」として描くことは、ヒト以外の生物に対する扱いの問題を真剣な政治的、道徳的議論の対象とすることを妨げるのに役立ってきたのである。」[3]

 

 ヴィーガンを支えているのは、基本的に科学的、客観的な視点です。動物の苦痛をなくそうと訴えるのは、「かわいい」「かわいそう」といった個人的、主観的な感情を超えて、それが政治的、道徳的な問題だからです。


 ですので、ベジタリアンやヴィーガンの実践を「動物愛護」と呼ぶのは不適切だと言えます。同様にペット産業や殺処分などの社会問題に取り組むことについても、「動物愛護」という呼び方をするべきではないかのかもしれません。

 一度定着してしまった言葉を修正するのは難しいですが、シンガーが述べるように、言葉づかいによって問題が軽視されてしまうこともあります。


 もちろん「動物愛護」という言葉そのものが悪いわけではなく、やはり便利なものでもあるので、ヴィーガンや動物倫理学(=動物との関係を考える倫理学の分野の一つ)と区別した上で用いるのが良いと思います。


III.植物は?

 最後に、植物について考えてみましょう。

 日本では、植物を敬い重んじる独自の伝統が育ってきました。謡曲にはしばしば草木の精霊が主人公として登場するなど、人と植物の関わりは日本文化に欠かせないものです[4]


 現在の科学では、植物の「意識」や「苦痛」の根拠は見つかっていません。なので客観的にいえば、「植物の苦しみ」に配慮するのは不合理だということになります[5]。そうはいっても、植物は好きなだけ殺してもよいと言い切れる人はほとんどいないはずですし、植物を思いやることはとても素敵なことだとも思います。実際、植物への道徳的配慮を真剣に考えている学者もいます[6]


 2で見たように、食肉は植物を直接食べるよりはるかに多くの森林を破壊し、大量の穀物を浪費します。ですので植物を守るためにもやはり食肉を避けるべき、ということが言えるのです。さらにいえば、植物や他の生物を可能な限り殺さない生活をするジャイナ教や[7]、フル―タリアン(=動植物の命を奪わないような食を選ぶ人)の選択肢があります。


 繰り返しになりますが、一人ひとりが自身にとっての「可能」と向き合い、少しずつでもより良い選択へ向かってゆくことが大切だと思います。



※1「間接的にであれ危害が見込まれる行動(ここでは消費)をするべきではない」という論理を想定しているのですが、厳密にいえば「危害をもたらすシステムを支援すべきではないのか?」という問いに一つの答えを与えるのは難しく、様々な方法が議論されています。詳しくは↓の四節をご参照ください。

"Moral Vegetarianism". Stanford encyclopedia of philosophy.

また、消費が生産につながることについては↓別のメンバーが詳しく論じています。

「菜食を巡る個人消費の影響と倫理的実践 」


※2雇用が消え失業が増えることが心配になってしまいますが、植物性食品の需要が高まると新たに多くの雇用が生まれるとも言われています。

参考:"A Shift To Plant-Based Diets Would Create 19 Million Jobs In Latin America & The Caribbean". forbes. 2020/7/31


※3今回の連載ではベジタリアンとのつながりに焦点を当てたこともあり、革製品や動物実験、動物園などヴィーガンが食事以外に避けるものについてはほとんど述べられませんでした。これらについては別のブログで論じてみようと思います。

お勧めの本などあればご紹介いただけるととても嬉しいです。


<参考文献>

[1]児玉聡『実践・倫理学―現代の問題を考えるために』勁草書房 2020 pⅰ-ⅲ(第六章でベジタリアニズムについて論じられています)

[2]打越綾子編『人と動物の関係を考える』ナカニシヤ出版 2018 p10

[3]ピーターシンガー『動物の解放 改訂版』戸田清訳 人文書院 2011 p13-14

[4]中村生雄『肉食妻帯考』青土社 2011(第三部一章で日本の動物観、植物観について論じられています)

[5]シェリー・F・コープ『菜食への疑問に答える』井上太一訳 新評論 2017(第一章で植物を食べることについて論じられています)

[6]ステファノマンクーゾ、アレッサンドラヴィオラ『植物は知性をもっている』久保耕司訳 NHK出版 2015

[7]上田真啓『ジャイナ教徒とは何か―菜食・托鉢・断食の生命観』風響社 2017




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