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あなた1人だけがヴィーガンになっても無意味なのか?——菜食を巡る個人消費の影響と倫理的実践

Writer: boru//

1 はじめに

私が本記事で論じたいことは、あなた1人だけでもヴィーガンになるべき理由についてである。倫理的な理由からヴィーガンになっている人は多く、それはヴィーガニズムの中心的な理由でもある。そうしたヴィーガンによく浴びせられる批判の一つに「あなた1人だけがヴィーガンになっても経済活動には何の影響も与えないから無意味である」というものがある。

 倫理的な理由からヴィーガンになっている人は、自らが動物製品の購買を止めることによって動物たちの犠牲を減らし、苦痛を減らそうとしている。しかし、たった1人だけが購買を止めたところで経済活動に与える影響はほぼ皆無だ、と思われがちである。実際、私1人がヴィーガンになったところで動物の苦痛をどれほど減らせるというのだろうか。

 本記事はこのことについて検討し、菜食という倫理的実践の意義について考察する。そしてこの種の問いに真剣に悩む人たちに対して説得的な議論を提供する事を目的とする。まず第2節で問題を整理し、素朴には、少数の人がヴィーガンになったところで経済的な影響を与えることはできそうにないということを述べる。第3節で、我々の個人消費の影響を考察し、長期的にヴィーガンになることで影響を与えることができることを述べる。第4節で問題を再度考察し、そもそも当の批判が誤った前提に基づいていることを示す。最後に本記事をまとめる。


2 あなたがヴィーガンになる(なった)ということの無意味さ

ヴィーガンになることの理由には様々なものがある。健康や宗教的信念はもちろん、ストイックさを求めてヴィーガンになる人もいる。しかし最も重要な理由は倫理的理由、つまり、動物の犠牲や苦痛を減らすことである。倫理的理由からヴィーガンになっている人をエシカル・ヴィーガンと呼ぶことがある。本記事では以降、特に注意書きがない限り、「ヴィーガン」は「エシカル・ヴィーガン」を意味する。

 さて、ヴィーガンの最大にして唯一の目的は動物の犠牲や苦痛を減らすことである。では、それはヴィーガンになることによって達成されるのだろうか。

 よくあげられるデータの一つとして以下のようなものがある。


ヴィーガン食を食べる人は、一日あたり

  • 1,100ガロンの水(約4千リットル)

  • 45ポンドの穀物(約20.5キログラム)

  • 30平方フィートの森林地帯(約2.8平方メートル)

  • 20ポンドのCO2相当量(約9キログラム)

  • および1匹の動物の命

を救っています(save)。

https://www.cowspiracy.com/facts [閲覧日: 2020-09-09]


 私はヴィーガンになってから2年ほど経過するので、この計算に従えば、動物の命をおよそ730頭以上救っていることになる。

 しかし、これは本当だろうか。この計算はそもそもどうやって行われたのか。答えは簡単で、全体を人数と時間で割った平均である。年単位の総消費量・生産量は統計データとして入手できる。そこから、その統計データの総日数と総人数を割れば1日当たりかつ1人当たりの平均を計算できる(実際はより複雑な計算が行われているが、本質的には同じである)。この平均値のデータを上のように「救っています(save)」と示すことは、あなたがヴィーガンに変わればその平均値分減らせると言っているようなものである。

 しかしそれは誤りである。このデータが示せるのはせいぜい「統計的に平均的には、あなたがヴィーガンになればこれだけ減らせる」ということくらいで、「あなたがヴィーガンになれば実際にこれだけ減らせる」ということを示すことはできない。

 では実際にはどれほど減らせるのか。素朴には、あなた1人の消費活動だけが変わったところで実際の生産活動にはほぼ影響がないと思われる。これが例えば、1万人が同時に同じ地域でヴィーガンに変われば、その地域の生産活動に影響を与えそうな気はするだろう。しかし私やあなた1人だけが、あるいはごく一部の人だけが変わっただけでは、経済活動に与える影響は微々たるものだと思われる。それゆえ、あなただけが変わったとしても、それによって減らせる犠牲は微々たるものであり、苦痛を減らすことはできないと思われる(※1)。


 以上のことは、ヴィーガンの倫理的理由が実は無意味であるかもしれないという疑いを示している。あなただけがヴィーガンになったところで苦痛を減らせないのであれば、1人でヴィーガンになるべき倫理的理由などないように思われるからである。そしてこれは少人数程度でも同じ話であるかもしれず、複数の友人と一緒に変わるようなことも無意味であるかもしれない。

 では、ヴィーガンは、ヴィーガンであり続ける倫理的理由を失うことになるのだろうか。以下ではこのことについて検討する。


3 あなただけがヴィーガンになることは無意味か?

3.1 問題設定

以下ではS・ケーガンの議論に従って、この問題を考察していく(Kegan 2011)。

 あなたがお店で買い物をしているとしよう。そこであなたは鶏肉を一匹分購入するとする(ここではわかりやすくするために、一匹単位で考える。この単位をある程度変えても以下で行う議論は同様に成立する)。

ここで次のようなお店の経営モデルを考える。お店は在庫に合わせて畜産業者から鶏肉を仕入れるが、お店はこの仕入れ量を需要に応じて変えるはずである。したがってお店は、実際に鶏肉が購入された量(売上量)に応じて畜産業者から仕入れ量を変えるだろう。もちろん、お店は実際の売上量と等しい量を畜産業者から仕入れるわけではない。そこで、ある一定の売上量を超えた/下回ったときにのみ、畜産業者からの仕入れ量を変えるとする。ここでその閾値をTとしよう。

 お店の仕入れ行動を次のように仮定する。ある期間の鶏肉の売上量がT以外だとしよう。このときお店は、畜産業者からの仕入れ量を変えない。しかし、売上量がTの場合、畜産業者からの仕入れ量をTだけ増やす/減らすとする。つまり、閾値Tに応じて段階的に仕入れ量を変えるとする。

 また、畜産業者側も同様にして、閾値Tに対応して生産量を変えるとし、畜産業者の生産量とお店の仕入れ量が等しいとする(この仮定は後に3.3節で検討する)。

 この閾値Tは、供給がどれだけ敏感に需要に反応するかを示す値である。Tが小さいほど需要に敏感に反応し、Tが大きいほど需要に鈍感であることを示している。

 以上で問題設定が整ったので、次にあなたの購入の影響について考える。


3.2 あなたの購入による影響

あなた以外の人も同様にして鶏肉を1匹買うとしよう。あなたの購入の前にT-1人の人が鶏肉を購入したとする。そしてあなたがT番目の購入者だとしよう。すると、あなたの購入は、お店が鶏肉をT匹分追加で仕入れる引き金になり、T匹の鶏が追加で生産・殺されることになる。したがってあなたの購入行為は、鶏をT匹殺すことを引き起こしたことを意味する。しかしあなたがT番目以外の購入者であれば、仕入れ量と生産量は変わらず、それゆえあなたの購入行為は鶏を1匹も殺さない。つまり、あなたの購入は経済活動に一切の影響を与えないし、鶏に苦痛を与えることもない。

 ここで、あなたがT番目の購入者であるケースをケースA、T番目以外の購入者であるケースをケースBとしよう。次に、それぞれのケースでの幸福と苦痛の総量を考える。

 あなたが鶏肉から得られる味覚的快楽の大きさをPとしよう。そして鶏が殺されることによる苦痛の大きさをSとしよう。当然、P<S(P-S<0、PはSより小さい)である。

 ケースAでは、あなたの購入によって鶏がT匹追加で殺される。したがってケースAでの幸福総量W_A

はW_A=P-T×Sである。

 ケースBでは、あなたの購入によって鶏の苦痛は一切増えない。したがってケースBでの幸福総量W_BはW_B=Pである。

 次に、それぞれのケースが起こる確率を考える。もちろんあなたは、自身がT番目の購入者であるかどうかを確認する術をもたないから、あなたにとって、ケースAである確率は1/Tであり、ケースBである確率は(T-1)/Tである。Tが大きくなればなるほど、ケースAである確率は小さくなる。

 最後に、あなたの購入による幸福総量の期待値E(ある出来事の起こる確率とその出来事における値の掛け算の総和)は、次のように計算される。












以上より、あなたの購入行為の期待値はTに無関係にマイナスである。つまり、あなた1人の鶏肉の購入による幸福総量の見込みは常にマイナスであり、苦痛を増やす見込みが必ず大きいことを意味する

したがって、あなた1人だけでも鶏肉の購入を控えるべきである


3.3 残る違和感と、その解決?

ここまでの議論に違和感をもつ人もいるだろう。以上の話は3.1と3.2節で述べたことを全て前提にすれば正しいので、この結論への違和感は前提となる問題設定にある。

 疑わしい前提はいくつもあるが、その一つはお店の仕入れ量と畜産業者の生産量が等しいというところだろう。お店の仕入れ量がここでの仮定のように変化するとしても、畜産業者の生産量がそれに対応して変わるとは思えない。というのも、畜産業者はお店の仕入れ量に敏感に反応しないはずであり、畜産業者の生産量の変化の閾値はお店の仕入れ量の変化の閾値Tより非常に大きいはずだからである。しかし、この問題は全く重要ではない。仮にお店での仕入れ量の変化の閾値がTであり、畜産業者の生産量の変化の閾値がG(>>T)だとしよう(※2)。これは先ほどの式でどのように表現されるだろうか。TをGに変えるだけである(あなたが閾値G上の購入者かそうでないかのみが関連する差異であるから)。そして結局、Gは本質的に無関係である。それゆえお店と畜産業者での閾値の差異は問題とならない。

 問題となる前提は閾値の違いではなく、生産量の変化の柔軟性である(Gesang and Ullrich 2020)。本節での議論には、閾値を超えれば生産量が即座に変わるという前提があるが、生産量は閾値を超えたか超えないかで簡単に変えられるものではない。生産量が変わるためには生産要素や生産計画が変わらなければならないが、それらは短期的に変えられるものではない。したがって、一度の購入や少数回の購入を止めるだけでは、生産量に変化が及ぶことはなく、鶏(動物)たちの苦痛総量に変化をもたらさない可能性が高い。

 しかし、もしあなたが長期的に購入を止めるのであれば話は異なる。長期的には生産者(供給側)は生産要素や生産計画を変えることができる。当然、生産側は利得を多くしたいから、需要に合わせて生産量を変えようとし、長期的には需要と供給のバランスが達成される方向に向かう。したがって長期的には、需要を減らすことは供給の減少をもたらす可能性が高い(※3)。

 以上のことから、あなたが長期的に肉の購入を止めることは、生産計画を変え、苦痛総量を減らす見込みがある。したがって、あなたが長期的にヴィーガンになることは苦痛を減らす見込みがある。(※4)


4 問題は解決したのか?

ここで、我々が何を問題にしていたのかを思い出そう。元々の批判は「あなた1人だけがヴィーガンになっても経済活動には何の影響も与えないから無意味である」というものである。それゆえ我々は、ヴィーガンになることで実際にどれほどの影響を与えるのかを問題にしていたはずである。だが、第3節の議論で得られた結論は見込みでしかない。そして見込みは見込みでしかなく、実際の影響を教えてくれない。そうだとするなら、これは問題の解決になっていない。では、第3節までの議論は無意味だったのだろうか。

 そうではない。我々はそもそもこの批判をまともに受け取るべきではない。この批判には「我々は実際にどうなるかを気にすべきだ」という前提が隠れている。しかしこの前提は正しくない。なぜなら、我々は行為の実際の帰結を事前に知ることはできず、あくまでも可能性や見込みでしか知ることができないからである。知ることができないものを気にしても無意味である。それゆえ、我々が行為前に気にすべきことは、実際にどうなるかではなく、実際にどうなりそうかである。そして後者はまさに見込みであり、我々は見込みを気にすべきである。(※5)

 ここで第2節で提示した平均値のデータを思い出してみよう。


ヴィーガン食を食べる人は、一日あたり

  • 1,100ガロンの水(約4千リットル)

  • 45ポンドの穀物(約20.5キログラム)

  • 30平方フィートの森林地帯(約2.8平方メートル)

  • 20ポンドのCO2相当量(約9キログラム)

  • および1匹の動物の命

を救っています(save)。

https://www.cowspiracy.com/facts [閲覧日: 2020-09-09]


 私は第2節で、このデータを上記のように示すことは「あなたがヴィーガンに変わればその平均値分減らせると言っているようなものであ」り、誤りであると指摘した。これはたしかにそうである。実際に平均値分減るとは限らない。しかし我々は、実際にどうなるかを気にするべきではなく、実際にどうなりそうかという見込みを気にすべきである。

 見込み、つまり期待値とは、粗雑に言えば平均値とほぼ同じである。したがって、このデータによって実際に平均値分減る見込みがあると主張することはできる(つまり「救う見込みがあります」と主張できる)。このデータを用いる意義はここにある。我々が気にすべきことが見込みであるなら、このデータはまさに、我々の実践的行動の理由を裏付けてくれるからである。

 以上のことが正しければ、実際に影響がないという批判が正しいとしてもなお、その見込みはあるのであり、ヴィーガンは倫理的理由を保持し続けることができる。


5 まとめ

 本記事では、ヴィーガンに対する「あなた1人だけがヴィーガンになっても経済活動には何の影響も与えないから無意味である」という批判を検討した。第2節では、この批判の根拠を説明し、それが素朴にはもっともらしいことを確認した。第3節では、お店の経営モデルを仮定して批判の妥当性を考察し、いくつかの前提の下では個人の食肉の購買行動は必ず苦痛を生み出す見込みがあることを示した。また問題のある前提を取り除いたとしても、長期的に購買を避けることは苦痛を減らす見込みがあることを述べた。最後に第4節では、元々の批判は「実際にどうなるか」を気にしており、第3節の議論は見込みを気にしているという点でずれた解決になっている疑いを述べた。しかしそもそも、我々は実際にどうなるかではなく、どうなりそうかを気にすべきだということを述べ、批判を退けた。そして第3節での議論、およびよく使われる平均値のデータが、我々の倫理的理由を裏付けてくれることを述べた。

 ヴィーガンの中には、自分の行っている行動が無意味ではないかと思い燃え尽きてしまう人がいる。たしかに、自らの消費行動の結果を実際に確認することは難しく、「あなたの活動は無意味だ」などという批判を浴びせられたら気が持たないのも当然である。しかし、それらの批判をまともに受け取る必要はない。菜食の実践が実際に家畜動物の数を減らすことはないかもしれないが、我々はそもそもそれを気にすべきではなく、見込みを気にするべきだからである。そして見込みで考えれば、ヴィーガンは毎日1匹の動物を救う見込みのある生活を送っている。環境問題を考えればそれ以上の効果を見込めるだろう。それゆえ、ヴィーガンは自信をもって「私は動物を救っている」と言っていいのである。







※1:大多数が同じように行為した場合には影響が大きいが、個人の行為がその影響にほとんど寄与していないと思われる場合に生じる問題を「集団的影響の問題 the problem of collective impact」と呼ぶ(Nefsky 2018)。こうした問題を受けて、たとえ影響がなくとも、あなたにはそうすべき道徳的理由があるとする議論が考えられる(サンドラー 2019 pp.110-112)。例えば、もし全ての人が行為しなかったら大きな災いを生み出すから1人であっても行為しようという意志を持つべきである、あるいは誠実であるために行為すべきである、など(倫理学に通じている人は、こうした議論がカント義務論や徳倫理と密接に結びついていることを確認できるだろう)。筆者はこれらの議論に全く同意しないが、一方でこれらの議論は成功するかもしれないし、批判者に対する効果的な反論になり得るだろう。しかし、この種の疑問を真剣に悩む人にとって、これらの議論は何の慰めにもならないことに注意すべきである。影響がなくとも行為すべきだと考えている人は、初めからこの種の疑問に悩むことはないからである。仮に、そう考えていているにも関わらず悩んでいるのだとしたら、その人はまさに影響がないことについて悩んでいるのだから、やはり何の慰めにもならないのである。

※2:Gがあまり大きくない可能性もある。生産者(畜産業者)側が市場価格に敏感に反応するということについてはMcMullen and Halteman (2018, sec.2a)を参照のこと。ただし、これが他の地域の畜産にも当てはまるかどうかは不明である。例えば Gesang と Ullrich は、EUでは、共通農業政策のためにこれが成り立たない可能性を論じている(Gesang and Ullrich 2020)。こうしたことが日本の畜産にも当てはまるかもしれない。

※3:以上の内容の一般的な事柄について、そのミクロ経済的な詳細は神取(2014 第2章)を参照のこと。

※4:本節での議論に対する有力な批判の一つに、生産量の急激な変化を緩和する「緩衝材 buffer」の存在を指摘するものがある(Budolfson 2018)。Budolfsonによれば、緩衝材の存在によって、消費者は自身が閾値上にいるかどうかの情報を得ることができ、また閾値を超えた場合の影響も少なくなるという。この議論にはある程度3.3節の議論で答えられていると考えるが、詳細な議論は別の機会に行うつもりである。緩衝材の議論に対する詳細な反論としてはMcMullen and Halteman (2018, sec.2a)およびHedden (2020, sec.2)を参照のこと。ただし、一方でMcMullenらとHeddenの議論の一部は真逆の内容になっており、他方で両者はともに、緩衝材の存在は閾値をずらすだけであり、Kaganらの議論の本質的な部分を変えないと主張している。両者の主張の整合性は詳細な検討を必要とするだろう。なお、どの議論に関しても日本の畜産にも当てはまるかどうかは不明である。

※5:「実際にどうなるか」と「実際にどうなりそうか」の争いは、倫理学において帰結主義という立場の中で多く見られるものである。日本語で読めるものとして安藤(2007)があげられる。ただし、帰結主義におけるこの議論は正しい行為の基準についてであって、意思決定の基準についてではないことに注意してほしい。意思決定の基準は「実際にどうなりそうか」以外にはありえないと私は思う。


参考文献

  • Budolfson, M. B. (2018). The inefficacy objection to consequentialism and the problem with the expected consequences response. Philosophical Studies, 176(7), 1711-1724.

  • Gesang, B., & Ullrich, R. (2020). To buy or not to buy? The moral relevance of the individual demand in everyday purchase situations. Food Ethics, 5(1), 1-10.

  • Hedden, B. (2020). Consequentialism and Collective Action. Ethics, 130(4), 530-554.

  • Kagan, S. (2011). Do I make a difference?. Philosophy & Public Affairs, 105-141.

  • McMullen, S., & Halteman, M. C. (2018). Against inefficacy objections: The real economic impact of individual consumer choices on animal agriculture. Food Ethics, 2(2-3), 93-110.

  • Nefsky, J. (2018). Consumer choice and collective impact. in The Oxford handbook of food ethics, 267-286.

  • 安藤馨(2007)『統治と功利』勁草書房

  • 神取道宏(2014) 『ミクロ経済学の力』 日本評論社

  • L・サンドラー, ロナルド(2019; 原著 2015) [馬淵浩二訳]『食物倫理入門』ナカニシヤ出版

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